ワンダーフェスティバル
実行委員会
代表挨拶
開催40周年を迎えるワンダーフェスティバル
2025年はワンダーフェスティバル(以下「ワンフェス」)が誕生して40年、というメモリアルイヤーとなります。
1983年に現在のかたちで誕生したガレージキット(以下「GK」)は、たった1年少々の間に各地に数多くの造形作家集団を生み、彼らが作り出す造形作品は模型界に新しい市場を生み出すこととなりました。
■ワンフェスの誕生
当時、大阪に居を構えていたSF専門店「ゼネラルプロダクツ」(以下ゼネプロ)が、大阪で開催された日本SF大会(通称:DAICONⅢ、Ⅳ)の中心でした。海洋堂とゼネプロは互いに大阪を拠点とし抗争していた(と言っても、互いに批判的に罵倒をし合う、たわいもないものでしたが)関係性でしたが、1984年当時、ゼネプロ代表である岡田斗司夫、武田康廣の両氏が、「日本SF大会に近いかたちでフィギュア向けのイベントを開催したい」と海洋堂に来られて、「お互いこれからフィギュア世界を盛り上げていきましょう」ということで意気投合しました。そして、ゼネプロが主催となり、ワンフェスは1985年1月13日に東京都立産業貿易センター(通称・都産貿)で初開催されました。(初回は約40組のディ―ラーからスタートしました)
■当日版権の登場
ワンフェス誕生時のGKは元々同人誌に近い、マニア間だけで楽しんでいた存在で、ある意味アンダーグラウンドな世界でありましたが、1987年頃から画期的なライセンスシステム「当日版権」が採り入れられ、表舞台で大きく発展・進化していきました。そのおかげもあってか、都産貿1フロア開催から始まり、回を追うごとに3フロアまで拡大しました。それでも手狭となり、当時晴海にあった国際見本市会場の1館を使うまでになりました。
※「当日版権」・・・既存キャラクターの権利を管理している版権元に対し、実行委員会が窓口となり「開催当日・会場内限定」で製作・展示・販売の許諾を受けられる制度。
■ゼネプロから海洋堂へ
ところが1992年冬ワンフェスの閉会時に主催のゼネプロ(当時はガイナックス)より「本日をもってワンフェスの主催を降りることとします。今後については海洋堂さんに引き継いでもらうことを考えております」という衝撃的な館内アナウンスが流れ、会場は騒然となります 。これは私も寝耳に水で、驚き、また信じられない心境でした。これだけの大きなことを何の下話もなく、「はいそうですか」と即答で引き受けることはできません。その直後からワンフェス引継ぎについて海洋堂社内で様々な意見が噴出し、喧々諤々の日々が長く続きました。結局、1992年夏から海洋堂は主催を引き継ぎ、新しいワンフェスを開催していくこととなりました。引き継いだ初回、1992年夏はイベント運営など全く素人の海洋堂にとって、上手くいかない事ばかりで「このままどうなっていくのか?」という大きな不安や心配がありましたが、その後、ワンフェスのテーマを「造形作家が自分たちの作った作品を自由に発表・販売できる場」と定め、年2回の開催をコツコツと続けました。
■ワンフェスの今とこれから
その「ものづくり」に対する姿勢が広く注目、評価され始め、ワンフェスは2016年時点で参加者が56,000人(参加延べ人数)規模に達する巨大なイベントに発展しました。日本に留まらず2018年には上海で、2023年にはタイ・バンコクで開催し、海外への拡大を続けています。1985年当初は縁日のようなこじんまりとした手作り感のあるイベントでしたが、イベントとしてのワンフェスが大きくなり成長するにつれ、2020年の新型コロナウイルス感染拡大や、一般的なコンプライアンスや安心安全への意識向上などの、年々変化する造形業界を取り巻く状況に対応するため、様々に詳細なルールを次々と追加しなければならなくなっている現状があります。
そのような状況で私、宮脇が実行委員会代表の役目として、1985年に誕生したワンフェスは40年経った今も「ものづくりの祭典」であることを基本姿勢とし、それに基づいて開催されていくよう、まだしばらくは目を光らせていきたいと思っております。41年目となるワンフェスへの応援をこれからもよろしくお願いします。
文 / 宮脇 修一
株式会社海洋堂 顧問
ワンダーフェスティバル実行委員会 代表
Text by Miyawaki Syuichi